ご無沙汰しております。いろいろとバタバタとしていて自分のPowerBookから離れた生活をしていました。そしてはっと気づくとバッテリー容量は最低限(3分もつかどうかというところ)、セミコロンキーキャップがとれかかっており、しかもなんとなく電源の部分があやういです。私の愛するPowerBookちゃんなのにこんな手抜きメンテナンスで良いわけがありません。
でも近いうちに新しいのが欲しいなあと思ったりもしますね。正直。
ところでふと思ったのですが、「テレビ(あるいは番組)に固執する」ということが私はとても嫌いだということに気づきました。「〜〜を見なくてはいけないので」とか言われると思わずアホかと思いますね。世界共通なのが、スポーツ放送。アメリカ人はアメリカンフットボールや野球やバスケやホッケーなどに、イタリア人は当然サッカー。「今日はサッカーだからそれを見たい」ではなくて「今日はサッカーだからそれを見なくてはならない」というのがいやだという意味なんですが。
「さあみんなで観戦しよう!パーティーだ!」という雰囲気だとわーい!楽しい!と、微笑ましい感じがするのですあ、ひとりきりで真面目な顔して「今日はこれをみなきゃいけないから」と必死で見ているひとをみると、なんか人生って、と思ってしまいます(大げさ)。
とはいえ、昔は熱烈なヤクルトファンだった私。ヤクルトが若くて強い時期もあったのですよ。ですからかなり頑張ってテレビの前で応援していました。そんな私に「ヤクルトスワローズがあなたに何をしてくれるというの」と冷めた顔でコメントする母にちょっと恥ずかしい気分を感じたりしたこともありました。きっとそんな気分なんでしょうね。
暖かい目でみてあげようと思ったりもするけれど、ときどき目にする光景で、テレビに夢中になっている家族の食卓、というのは実はちょっとだけぞっとするほど寂しい光景だったりするなぁと思うのです。なんだか今更なトピックだし、言い尽くされたことかもしれないんですが、イタリア人もアメリカ人も日本人も、と思うと、突然に悲しい気持ちになりました。
だいたい、ダイニングルームにテレビを置く事自体、やっぱり問題だと思うのです。「テレビをみないで食事を『したい』」と思う人がもっと増えてくれたらいいな。科学的にも、視覚が「おいしさ」の感覚を満たす最大で最初の感覚だと言われています(その次は臭覚で最後がやっと味覚)。その視覚をほとんどテレビに向けてるなんて、味が分からなくなって当然。味が分からない食事を何十年も摂り続けるのって、最終的にどんな影響があるんでしょうね。悲しいですね。